2026年3月下旬、日本バーチャルリアリティ学会の副会長就任が決まった稲見昌彦は、その報を伝えるSNSにこう記した。
「VRのプレイヤーは、いまや人間だけではありません」
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このフレーズが示唆する「VR2.0」はどこへ向かい、なぜいまAIと束ねて語られねばならないのか──。エンターテインメントの最前線で実験的なVR表現を手がける笠島久嗣(イアリンジャパン/MIGIRI)を聞き手に迎え、稲見と語り合った。
教科書に書き忘れたこと
笠島 稲見先生、改めて日本バーチャルリアリティ学会の副会長ご就任おめでとうございます。SNSのご投稿は、VR業界に身を置くぼくの側からも、一語一語うなずきながら読みました。その日本バーチャルリアリティ学会から出ている『バーチャルリアリティ学』はとても普遍的な教科書だと思いますが、書かれてからずいぶん時間が経っています。いまのタイミングで改訂するとしたら、どこからアップデートすべきだとお考えですか?
*『バーチャルリアリティ学』:日本バーチャルリアリティ学会編によるVRの体系的教科書。初版は2010年に工業調査会から刊行。現行の「復刻版」は2011年、日本バーチャルリアリティ学会発行・コロナ社発売。
稲見 あの教科書を書いていたときには、AIがこんなに伸びるとはまったく想定していませんでした。研究は少しずつ進むと思っていたのですが、ここまでガンッと行くとは、わたしを含めほとんどのVR研究者も認識していなかったのが正直なところです。
それと地続きの話で、AIやロボット、フィジカルAIというと、たいていまずアバターがあって、ヒューマノイドがいて、それが動いて応対する……というイメージでとらえられがちですよね。そして、そうした「ボディ」がないのがChatGPTのような生成AIだ、と。
でもVRの側から考えると、デジタルツインやメタバースというかたちで「世界」がつくられてきたけれども、そもそも「誰がそれをつくるのか問題」があるわけです。わたしは以前から「メタユニバースではなくメタマルチバース」と言ってきました。一人ひとりがパーソナルな環世界*をもっていて、そのマルチバース同士をどう調停するかが未来のコミュニケーションだという考え方です。だとしたら、そのマルチバースを誰がつくるのか。そう考えていったときに、「あ、そうか。『生成AI』ならぬ『生成VR』という観点で、もう一回VRをとらえ直したほうがいいかもしれない」と思ったんです。
*環世界:生物学者ヤーコプ・フォン・ユクスキュルが論じた概念。生物が知覚し、働きかけることでかたちづくられる、生物ごとに固有の意味世界。
しかも「知能」には、人型をはじめ「目の前に現前するもの」だけではなく、「環境のほうに知能が埋め込まれていく」というあり方もある。例えば将来のメタバースは、自分以外が全員AIという世界であってもまったくおかしくなくて、むしろそちらのほうが物理世界よりも楽しいと感じる人も出てくるかもしれない。SFでいうと『ソラリス』*の海みたいに、環境そのものが知的にふるまうかもしれない(「ソラリス学」*のように、100年研究してもわからないかもしれませんが……)。そういう考え方でもう一度VRを再定義できるのではないか、という観点がまず抜けていますね。
*『ソラリス』:スタニスワフ・レムのSF小説(1961)。「知性をもつ」と目される巨大な海に覆われた惑星を描く。
*ソラリス学:同作に登場する架空の学問。長年にわたって惑星ソラリスを研究するも、解明に至らない。
「バーチャルVR」と「GPVR」
稲見 さらにいうと、VRには冬の時代が何回かあって──わたしはサバイバーだと思っているのですが(笑)──ゼロ年代の冬の時代のころによくいわれていたのが「バーチャルVR」という考え方でした。見かけやかたちはVRではないけれど、実質的な効果としてもはやVRととらえていいだろう、といったものたちです。人間の五感に根差したものとか、マルチモーダルな多感覚インタラクションとか、立体映像ではない2010年代に流行ったスマホのARも、広い意味で「バーチャルVR」に入れていい。
これに加えて、もうひとつ、GPUの歩みになぞらえた言葉として「GPVR(General Purpose VR)」という考え方が出てきてもいいのではないかと思います。
わたしは90年代後半からSIGGRAPH*に行っていますが、当時のCGには欠かせなかったシリコングラフィックスのブースがどんどん小さくなって、NVIDIAのブースが大きくなっていく様子を見てきました。残念ながら株は買っていなかったのですが(笑)。そのNVIDIAのひとつの転機が、GPUがGPGPU(General Purpose GPU)になったときでした。グラフィックスやゲームのエンジンとしてだけではなく、開発環境のCUDAを導入し、汎用的な計算に使っていこうと。それがたまたまAIに刺さったし、暗号資産のマイニングにも刺さった。
*SIGGRAPH:米国のAssociation for Computing Machinery(計算機協会)が主催する、コンピューターグラフィックスとインタラクティブ技術の国際会議。第1回は1974年に開催。
それと同じように、もしかするとVRにも、「バーチャルVR」とは別に「GPVR」という潮流があるのではないかと思っています。実際に研究の分野では、動物の実験をする際に「環境」を再現する用途でVRが使われています。その草分けが、現在デジタルハリウッド大学の学長を務めていらっしゃる藤井直敬*先生で、例えばサルの社会性を研究する過程でサル向けのSRシステムを開発し、実験に用いていらっしゃいました。ほかにも、動物や昆虫を対象にしたVR研究にはすでに長い蓄積があり、近年は装置の低価格化や対象種の拡大が進んでいます。また、植物を非人間の主体として扱うヒューマン・コンピューター・インタラクション(HCI)*や、植物の成長・環境応答を仮想環境で模擬する研究も出ています。
*藤井直敬:脳科学者。代替現実(SR)システムの開発で知られる。
*ヒューマン・コンピューター・インタラクション(HCI):人間とコンピューターの相互作用を、インターフェースの設計や評価、社会的影響などを含めて研究する学際的分野。
わたし自身、これまではバーチャルリアリティを含むHCIは、最終的に人間にどう働きかけるかが第一原理*だと思ってきました。人間の知覚・感覚というところが、イーロン・マスク的な意味での第一原理であって、そこさえ押さえておけば、いろいろなサービスができるはずだ、と。
*第一原理:ここでは、既存の慣例や類推に頼らず、根本的な要素から問題を考える思考法を指す。
ところが最近は、HCIの分野でも「more-than-human-centred design(人間以外の主体や相互依存関係を考慮する設計)」の議論が拡がっています。「人間だけじゃないよね」と。人間以外のVRサービスがいろいろあるなと思っていたところ、そこがまさに「2.0」の話につながるんです。
いまのフィジカルAIや自動運転車の深層強化学習というのは、生成AIでつくったバーチャルリアリティの環境、つまり生成VRをつくって、そこを「精神と時の部屋」として、ロングテールなさまざまな状況を統計的に学習させていく、ということが一部で起きています。
今後、先進国の人口は減っていく。いずれ、われわれホモ・サピエンスよりもAIエージェントやロボットといった「自動的な主体」のほうが多くなる時代が来る可能性は高いと、わたしは見ています。そのときのVRのメインユーザーは、もはや人間ではなく、AIエージェントやロボット、あるいは動植物になっている──という可能性もあります。
もちろん、人類が幸せに生きていくためには、最終的には人間に帰ってきてほしいのですが、この「途中の部分」というのはまったく想定していなかった。しかも、昆虫やロボットやAIのためのVRだったら、これまで人間中心で考えて「五感を正確に再現して、3次元空間で、インタラクティブで……」とつくってきた前提も、もっと変わってもいいはずです。LiDARの3D点群は、われわれの色覚中心の見え方とは異なりますし、機械にとってはその表現のほうが適しているかもしれない。
例えば、「なぜ空気や水が透明に見えるのか」という議論があります。空気や水には、ほかの波長より光を通しやすい波長帯があり、われわれの視覚は、そうした波長帯を「透明」と知覚するように適応・進化したことで、遠隔のシグナルを得られるようになったとされています。つまり、われわれにとって空気や水が透明なのは、われわれがその環境で生きてきたからだ──というわけです。
だったら、自動運転車にとっての「透明」って何だろう、と。機械の内部表現は、人間が見る写実的な3次元空間と同じである必要はないかもしれない。人間と共有するときだけ、3次元として提示すればいい場合もある。そうではない状況では情報をもっと圧縮しておいたほうが、より早く予測できたり、より安全になったり、より高度な、でもわれわれには理解できないような未来予測ができるようになるかもしれないわけです。
潜在空間とラマヌジャン
稲見 それがまさにAIの潜在表現、なかでも生成モデルで使われる「潜在空間 (latent space)」*と言われているところとつながってきます。われわれはわれわれで、言葉になる手前の「もやもや」のような潜在空間をもっている。これまでは、その潜在空間同士を「顕在空間」であるVRを介してつないできたわけですが、これからは、その潜在空間同士をどうつなげるのか、という観点が重要になってくる。そのときには、五感のインタラクションも必要かもしれません。
*潜在空間 (latent space):AIが入力データの特徴を内部的な数値表現として保持する空間。生成モデルなどでは、元の画像・映像より圧縮された低次元表現を使う場合がある。
最後のところはまだ何も検証できていないので、教科書の「改訂」には入らない妄想に過ぎませんが、おそらくそういうところにかかわる技術が、今後の研究として、「むしろみんなでそこを目指していこうよ」というところに来ているのかなと思います。
笠島 その「潜在空間」というのは、まさにわれわれMIGIRI*が手がけたバーチャルアーティスト「月白 累」*のVRChat*単独ライブのタイトル『latent』そのものではないかと思いました。勝手にシンパシーを感じます(笑)。
*MIGIRI:2022年に笠島が取締役を務める映像制作会社イアリンジャパン発のチームとして始動し、2025年10月に法人化したXRクリエイティブスタジオ。
*月白 累:げっぱく・るい。ソニーミュージック「VEE」所属のバーチャルアーティスト。
*VRChat:米VRChat Inc.が運営する、HMD・PC・モバイル対応の大規模ソーシャルVRプラットフォーム。
稲見 あ、それで「latent(=潜在的な)」なんですね。わたしはよく、数学者のラマヌジャン*を例に挙げます。彼は証明の過程を記していないのに、無数の「予想」を残しました。なぜそれが正しいかは説明できないけれど、どうやらその予想は正しそうだし、計算するとうまくいく。その後、何人もの数学者によって長い時間をかけて証明・検証されていきました。
*シュリニヴァーサ・ラマヌジャン:インドの数学者。1887生まれ。大学教育もほぼ受けないまま、独学で数学の最前線に到達した天才。1920没。
すでに将棋や囲碁ではそうなっていると思うのですが、AIと人間の関係性も、ラマヌジャンと数学者の関係性になっていくのかもしれません。つまり、証明とか理解とか理論とかモデルという、人間中心的なステップを踏まない状態のほうが使えるシステムや、より正確に未来を予測できるシステム、人間に効率的に介入するシステムができるかもしれない。
そうなると、「なぜそれが動いているのか」を解き明かしていくのが新しい自然科学者の役割になる。そしてそれをどう人に伝えていくか、というサイエンスコミュニケーションのほうが、これからの科学者のメインの仕事になるのだろうなと思っているんです。
将棋や囲碁の宇宙の真理を知っているのは、もはやトップ棋士ではなくて、AIのほうかもしれない。われわれはその深淵を少しずつ覗いていく──みたいな。その一方で、人間の身体を使った勝負に改めてスポットが当たるのではないかと思っています。わたしは最近、その状態を「不気味の谷」ではなく「推しの山」という言い方をしています。
象徴的なのが、いまは「チューリング」という完全自動運転向けの技術を開発している会社のCEOをやっている山本一成さんが、コンピューター将棋ソフト「Ponanza」*をつくったときのお話です。Ponanzaが最初にプロ棋士に勝ったとき、負けた棋士は泣くし、将棋界はお葬式状態だし、当時の「2ちゃんねる」で山本さんを批判するスレッドが立ったりして、本当に大変な目に遭ったと。ところが、名人に勝った電王戦のときには、もうあっけらかんと「最近強くなりましたね」ぐらいの空気だったそうです。さらにしばらく経つと、誰もPonanzaのことを覚えていなくて、藤井聡太さんの話しかしていないと。
*Ponanza:山本一成が開発した将棋AI。2013年に現役プロ棋士、17年に佐藤天彦名人を破った。
それを聞いて、「あ、そうか」と。「不気味の谷」の先に、もしかして「推しの山」があるかもしれないと思ったんです。われわれは、がんばっているホモ・サピエンスを応援するようにできている。駅伝の中継でも、画面に映るいちばん速い存在は白バイです。だけど、誰も白バイを応援はしません。やはり先頭でがんばっている人を「おお、がんばれ」と応援したくなる。そこに、AI以後の人類の営みのヒントがあるのではないかと思っています。VRの話、してませんね(笑)。
それでも最後は人間へ
笠島 いえいえ(笑)、すごく刺さりました。「推しの山」という感覚はとても大事だと思います。人を喜ばせたり、感動させたり、共感を得たり、何か同じものを共有して盛り上がるといった「人と人とのつながりのなかで生まれるコミュニティ」を大事にしたい、という思いをぼく自身も抱いています。人間が活用するVRって、結局、人と人とのつながりにこそ価値があるはずです。生成VRが先にあって、人間に最終的にどう還元されていくのか──。その絵を、早く見たいと思いました。
VRって、そもそも現段階では普段の社会生活に必ずしも必要ではありません。それでもわれわれが可能性を見いだしているのは、そこにある情動的な部分だと思うんです。ぼくの実感では、VRChatにおける最大のコンテンツは「人としゃべる」「人と会って何かをする」といった他者との共在を通じた間主観的体験ではないかと。そのためのツールだからいまでも残っている。仮に「何かを倒してレベルを上げましょう」みたいなゲームのためのツールだったら、絶対に残っていなかったと思うんです。人がいるから、そこに価値がある。
これから先、いろいろなコミュニティが生まれて、みんな自分の価値というものをどんどん探していく時代になる。そのときに、物理空間でしかつながれないという制限ではなく、インターネット空間のなかでデジタル的な自分・自己というものをそこに置いて、いろいろな価値観とつながっていく──そういう場所はVRしかないと思うんです。
ただ、それはVRという明確な境界線があるというよりは、例えば「2ちゃんねる」の固定ハンドルネームみたいな情報量の少ない小さなアバターから、VR的な身体性をもった自分まで……といったグラデーションのなかで、みんなが行ったり来たりしながら価値観を共有したり、誰かの価値観を理解したり、共感を得たりしていくのかなと思います。
VRというのはフィジカルとデジタルの境界線にあるメディアであって、デジタルとしての身体性という意味では、もう少し先がある。だからその「最前線」でどう価値をかたちにしていくか──という実験が、MIGIRIのミッションだと思っています。
VRやメタバースには、もっと深い、もっといろいろな可能性があって、多くの人はまだそこまでたどり着けてすらいない。「第2次VRブームは終わった」と言う人もいますけど、ぼくは冬の時代だとはまったく思っていません。
稲見 コミュニケーションメディアとしての生成VR、十分にありうると思います。VFXの人や空間設計の人がやってきたようなことが、もう少しちゃんと生成系と結びつくと、いわゆる言語コミュニケーションでは伝わらない「空気」を共有するような場にはなりうると思います。そのとき必要なのは、決してブレイン・マシン・インターフェイス*だけとは限らなくて、人間の内部状態を「逆問題*」で解いていくような仕組みも必要かもしれません。
*ブレイン・マシン・インターフェイス:脳の信号で機械を操作するなど、脳と機械を直接つなぐ技術。通称BMI。
*逆問題:観測された結果や信号から、その原因や内部状態を推定する問題。
最終的に人間にもっていきたいというところは、わたしも同意です。ただ、そのときの「もっていき方」、エンタメの考え方が変わってくるのかなと思っています。それでいうと最近、わたしのなかでのキーワードは「縄文時代」なんですよ。
笠島 縄文時代、ですか?
稲見 われわれはホモ・サピエンスとして、本格的な農耕社会が成立して以降の社会制度の積み重ねのなかでやってきました。でもいまや、そんな「構造化された世界」に適した作業は、AIやロボットの側にアウトソースできる可能性があります。
そうなったときに残されているフロンティアとして何があるかというと、火焰型土器みたいにドーンと長い時間をかけて何かをつくったり、どんぐりを採集したり、罠猟をしたり、魚を釣ったり……といった縄文時代の人々が行なっていた営みのなかにヒントがあるのではないか、言い換えると、『モンスターハンター』や『どうぶつの森』みたいなサービスのもっていき方になっていくのではないか──と思っているんです。
しかもそれは一般化するものではなくて、どんどん閉じたコミュニティに細分化されていく。ろくろを回したい人もいれば、山に行って狩猟したい人もいる、いや自分は盆栽を育てたい……とか。
縄文文化は1万年以上にわたって続きました。その後の農耕社会で「上書き」はされていますけれど、根底にある狩猟・採集・ものづくりに通じる営みへの関心は、なかなか消えないとわたしは考えます。「上の部分」はAIが代替できたとしても、その「根底にある何か」は、そうそう代替されえないはずです。
一方で、産業化・都市化・商業化とともに近代スポーツが制度化され、デジタル技術やインターネット、動画配信の普及がeスポーツの発展を後押ししたように、生活の基盤が満たされていくと、やがてエンターテインメントが不可欠になっていくのは人類が繰り返してきた摂理といえます。競技プログラミングなんて、ごく一部の愛好者しかいなかったのに、いまや「AtCoder」みたいな世界になっていますよね。
現在のような大規模なプロスポーツ産業は、産業化以前には想像しにくかったかもしれない。「育てゲー」がちゃんとゲームのジャンルになっているのは、もしかしたら農耕社会の名残りかもしれない。そういう意味では、AIトランスフォーメーションがあったときに、「新しいエンタメって何だろう」という問いがあっていいのではないかと思います。
現代版アレクサンドリア図書館
笠島 今後、エンターテインメント領域におけるVRがどこを目指すべきなのかを話すとき、ぼくはよく手品師を例に出すんです。80年代には、デビッド・カッパーフィールドみたいな「メディア時代の世界的なマジシャン」がいたじゃないですか。テレビを介したからこそ、自由の女神をうまく消すことができた。フレームのなかだからこそ起こりうるイリュージョンが世界中に発信されて、日本でも大人気になりました。あれはメディア時代にしか生まれなかったコンテンツだと思うし、CGが生まれてもギリギリ生き残りました。
でも、いよいよAIの時代が到来し、ありとあらゆるものが生成されてしまうようになると、メディアを通して見る人たちは、「これってAIじゃないの?」というところから入らざるをえない。そんな状況では、カッパーフィールドのようなイリュージョニストはもう絶対に生まれないと思うんです。
結局、人間として何を残せるかというと、最後は「テーブルマジック」しかないんです。目の前で手品をやったら、それはイリュージョンだけれども嘘はない。ビジネスとして考えたとき、これからの手品師の成功って何かといったら、100〜200人ぐらいの人たちの目の前でやることでマジシャン本人とその家族、あとはアシスタントひとりぐらいを十分に養えるといったものにどんどん収斂していくと思うんです。
物理的にその場に行かなければ体験できないものに価値が宿るのだとすれば、VRってギリギリその中間かなと思っているんです。VR上で誰かが何かをするというのは、そこに嘘があっても嘘がないというか、「本物と信じられる何か」がある。
これって結局、VRとAI時代に、もう一度ベンヤミンの「アウラ」*をどう定義するか、という話かもしれないと思うんです。そのアウラを信じさせるための実在性をどう出していくか──。ちょっと話がずれちゃいましたけれど。
*ベンヤミンの「アウラ」:ドイツの思想家ヴァルター・ベンヤミン(1892〜1940年)が『複製技術時代の芸術作品』などで論じた、芸術作品の「いま・ここ」にしかない一回的な現前性や真正性。
稲見 いや、ずれていないと思いますよ。一回性の設計がうまくできたときに、おそらく「推される側」になるんですよね。AI時代は、つくることが簡単になり過ぎてしまうので、最後の資源はモチベーションになるはずなんです。いまは「アテンションの時代」ですが、絶対「モチベーション」が最後の資源になる時代がやってくる。そして、人がかかわるビジネスチャンスとしては、推す/推される側になるか、推し活を円滑にする側になるか──というくらいに極論として考えています。そのときに「VRってどういう道具になるのか」という、別の問いの立て方をしていいのかもしれません。
その上でもうひとつ大事だと思うのが、「学ぶ」ってどういうことかという点です。以前に川上量生さんが言っていた話だと思うのですが、知はどこにあるかというと、基本的に社会のほうにあるんじゃないか、と。われわれは義務教育や高等教育を通して、その知がクラウドストレージのように貯まっていって、そのなかでちょっと新しい要素が出てきたら、ほんの少しお返しするくらいに考えたほうがよいのかもしれない、と。
昔はそれが図書館やインターネットだったのが、おそらく今後は「世界モデル」というかたちになってくる。じゃあ、その世界モデルがもっている知を、どうわれわれに転写して、それをどう戻していくのか。世界モデルと人がVRを介してインタラクションすることによって、自分の次のクリエイティブに転換し、世界モデル側にお返ししていく──その部分をどうつくっていくかだと思います。
それに関連して紹介したいのが、南カリフォルニア大学のスコット・S・フィッシャー*が進めている「イマーシブアーカイブ」プロジェクトです。フィッシャーは、VRという言葉ができる前からNASAでHMDの研究をしていた人で、VPLリサーチ*とともに第一次VRブームの立役者となる技術のもとを開発した人物でもあります。いまは南カリフォルニア大学で教えているのですが、彼が「イマーシブアーカイブ」プロジェクトという活動をやっていて、例えば「センソラマ」(1950年代後半に開発された、マルチセンサリーな没入型映像装置)とかアイバン・サザランド*の「ヘッドマウンテッド・スリーディメンショナル・ディスプレイ」みたいなものを、現代のVRヘッドセットで体験ごと追体験できるようにしている。
*スコット・S・フィッシャー:米国のメディアアーティスト、インタラクションデザイナー。NASAでVR研究(VIEWプロジェクト)を主導した先駆者であり、VPLリサーチとも深くかかわる。現在は南カリフォルニア大学(USC)映画芸術学部教授、同大学Mobile & Environmental Media Labディレクター。
*VPLリサーチ:VRの商用化を牽引した先駆者のひとりである計算機科学者/ビジュアルアーティストのジャロン・ラニアーが、DataGloveの原型を開発したトーマス・ジマーマンを迎えて1984年に設立した企業。DataGloveやEyePhoneなど初期の商用VR製品を展開した。
*アイバン・サザランド:計算機科学者。1960年代後半、コンピューター生成映像と頭部追跡を組み合わせた先駆的なHMDを開発した「CGの父」。
「あ、それが正解だったのか」と思いましたね。インタラクティブなものをVRで残せばよかったんだと。ゲームのアーカイブってすごく難しいじゃないですか。筐体をすべて残すことはできないので。そこでいったんVR化しておくと、体験ごと残る。サザランドのHMDなんて、つけると「あ、壁ってこんなに青かったんだ」「ここらへんのラスタースキャン*はこう見えたのか」と、もう涙が出そうになる。白黒でしか見たことなかったから。そういう使い方もあるのだなと。
*ラスタースキャン:画面を水平の走査線で上から順になぞって映像を描画する表示方式。
さらにいまは、研究者が2000年代にJavaでつくったブラウザのデモみたいなものも、ソースコードをLLMに読み込ませれば、現代のブラウザで動くよう再実装できる場合もあるじゃないですか。といったかたちで、「3次元・五感のエンサイクロペディア(体験ペディア)」としてのLLM、つまり「世界モデル × VR」というのは、人類の文明にとって現代版アレクサンドリア図書館みたいな、すごく大きなものになるのではないかと思います。いろいろな体験のアーカイブが入っていて、自分の過去の体験のアーカイブも、親の体験のアーカイブもあるかもしれない。そうした役割が、VRにはあるのかもしれません。
「もしもボックス」が叶うとき
笠島 最後に、普段はVRに触れようがない、VRの存在をそもそも意識すらしない人たちに向けて、「いまVRってこういうことになっていて、これからこういうことが起きるんだよ」と伝えるとしたら、何とおっしゃいますか。
稲見 小さいころ『ドラえもん』が大好きで、よく子ども同士で「たったひとつドラえもんの道具が手に入るなら何だ」という議論があったのですが、わたしは小学生のころからいまに至るまで一貫して「もしもボックス」なんですよ。
笠島 強いですね、それ。
稲見 あれは、いわば「メタひみつ道具」なんですよ。「もしもボックス」さえあれば、「もしもドラえもんがいれば」「もしも四次元ポケットがあれば」「もしもどこでもドアがあれば」と、さまざまな「もしも」の世界を実現できてしまう。
わたしはまさに、「生成VR」というのが究極の「もしもボックス」になるのではないかと考えています。体験可能になるまでにはあと数年かかるとは思うのですが、「もしも自分が何々だったら」と言うと、ボカンと空間が生成されて、空を飛び回ったり、スーパーヒーローをやったりして遊べる時代が、あと数年でやってくるはずです。だからVRを体験したことがない方には、「そろそろ『もしもボックス』ができますぜ」とお伝えしたいですね。「22世紀まで待たなくても、できそうです」と。
ただ、もしもボックスがあっても「もしも何々だったらいいな」を思いつかない人にとっては、やっぱりガラクタなんですよね。だから本質はモチベーションなんです。やりたいこと、つくりたいものがない人にとっては、冬の時代になるのかもしれません。でも、そういう人にモチベーションをもたせるような、「この指とまれ」的な提案ができる人が価値をもつようになるのでしょうね。
笠島 やがて訪れる「もしもボックス時代」に、いろいろな才能が積極的に「もしもこれがこうだったら」を活用して、新しい価値が共有されて、生活が少し豊かになっていく。どんどん時間が余って、やることを自分で見つけていかなければいけない時代に、VRという分野にはものすごく可能性があることを改めて確信することができました。
触れてみないと始まらないので、VRChatでもいいし、できれば稲見研究室のプロジェクトに触れてみる機会をつくって、これからの時代に備えていただきたいと思います。
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